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わずか8年?!短命に終わった高島町・二代目横浜駅の謎を追う

わずか8年?!短命に終わった高島町・二代目横浜駅の謎を追う

ココがキニナル!

高島町交差点近くのマンションを建てる際に当時の赤レンガが出てきたという二代目横浜駅。関東大震災で廃止となった同駅をもっと知りたい。当時の東海道本線の痕跡は残っている?(よこはまうまれさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

二代目横浜駅の遺構は今も大切に現地に保存され、また旧東海道線の痕跡も突き止めた。同駅の興亡とともに、その背景にある、大都市の中心駅にもかかわらず開業以来移転を繰り返してきた横浜駅の謎を深掘りする

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ライター:結城靖博


JR・私鉄・地下鉄と多くの路線が入り組む横浜駅は、年間乗降客数が新宿・渋谷・池袋に次いで国内どころか世界で4番目(2017年度)の巨大ターミナルだ。


今年新たに「JR横浜タワー」もオープンした西口駅前


ところが現在の横浜駅は、日本初の鉄道駅が誕生したその場所ではない。なにしろ開業した1872(明治5)年当時、この辺りはまだ海だったのだから。

ここに横浜駅ができたのは昭和の初め。実はそれまでに2度移転しており、この地は三代目の場所に当たる。

大都市の中心駅でありながらこれほど転々とするケースは珍しいという。

では、なぜそんなことに?「二代目横浜駅」も含めて、明治から昭和にかけて時代に翻弄され、さすらいを余儀なくされた横浜駅の歴史を辿ってみよう。



開港場のそばに誕生した初代横浜駅




近代鉄道史は変転が目まぐるしく、特に旅客と貨物の分離にまで話が及ぶと複雑極まりないことになる。「二代目横浜駅」はあくまで旅客駅だ。なので今回は、旅客線だけに視点を絞って見ていくことにする。

日本の鉄道は、1872(明治5)年にまず品川~横浜間で仮開通し、ついで同年中に新橋~横浜間が開通して本格的に幕を開ける。


品川~横浜間には同じ年に川崎、鶴見、神奈川駅ができた


そのとき横浜の停車場は、生まれたばかりの都市の中心地・開港場(かいこうば)に近い場所に置かれた。正確に言えば、現在の桜木町駅が初代横浜駅だったのだ。

下の2枚の地図を比べると、そのことが一目瞭然だろう。いずれも赤枠内にあるのが各時代の横浜駅だ。


現在の地図。青枠内が桜木町駅(『今昔マップon the web』より)



1906(明治39)年測量の地図(『今昔マップon the web』より)


初代横浜駅の設計者はアメリカ人建築家のR.P.ブリジェンス。木造斑石張2階建ての1階中央にコンコース兼出札所、左右に待合室、駅長室、荷物取扱所、2階に貴賓室と事務室があった。


1874(明治7)年頃の初代横浜駅(横浜市中央図書館所蔵)


この建物の偉容を実感したければ、現在汐留の跡地に復元されている「旧新橋停車場」を訪ねるといい。やはりブリジェンスの設計で、極めて近いデザインだからだ。

初代横浜駅は、下りの終着駅だった。つまり線路はここで行き止まり。次の浮世絵は、そのことをよく表している。


梅寿国利筆『大日本名所図会 横浜鉄道局』1881年(横浜市中央図書館所蔵)


世界の玄関口となった開港場近くを鉄路の終点にすることは、鉄道敷設の初めの一歩としては良かった。だが鉄道網を全国へ拡張させたい明治政府としては、東西交通の大動脈・東海道からそれた場所にある開港場付近に駅を建てたことが、のちのち悩みの種となる。

1887(明治20)年に鉄道が国府津(こうづ)駅まで延長されると、行き止まりの駅舎構造の横浜駅から西へは、いちいち機関車をつけかえて折り返し運転するという、手間暇かかるスイッチバック方式を採用せざるをえなかった。


1887(明治20)年の路線図。「Yの悲劇」という感じ


ちなみに上の図で「程ケ谷」となっているのは、誤りではない。同駅が「保土ケ谷」に改称されるのは1931(昭和6)年のこと。

事態が変化するきっかけは、1894(明治27)年に起きる日清戦争だった。すでに東京から広島まで開通していた遠距離鉄道で兵員と軍事物資を効率的に輸送するため、政府は横浜駅を経由しない短絡線を神奈川~程ケ谷間に敷設したのだ。

この軍用線が日清戦争後の1898(明治31)年に東海道線の本線に変わり、急行列車はじめほとんどの列車が横浜駅を経由せずに神奈川~程ケ谷間の短絡線を走ることになった。

おかげで神奈川~程ケ谷間は約40分も短縮されたが、このときから初代横浜駅は支線駅となり斜陽化の憂き目を見ることになる。



「平沼駅」があった時代




この横浜駅への処遇に対して、市は政財界あげて異議を唱えた。これを受けて政府は、横浜の中心地である港方面への便宜を図るべく、1901(明治34)年に短絡線上に「平沼駅」を開業する。


平沼駅開業時の路線図


だがこの平沼駅は市内中心地から遠く、移動手段は徒歩か人力車しかなく、周辺はいまだ未開発の湿地帯で雨が降ると道がぬかるみ、利用客にとってはかなり不便なところだったようだ。

そんなことから当時の平沼駅の乗降客は神奈川駅の半分、横浜駅の1割程度だったという。

その平沼駅は、現在の相鉄線・平沼橋駅の近くにあった。


相鉄線・平沼橋駅(線路左手の高架橋上が改札口、その下がホーム)



歩道橋の近くに東海道線・平沼駅についての名所案内標識があった



標識の解説プレート(左)と標識側面にあった地図(右)



歩道橋上から横浜駅方面を望む


ビルが林立する現在の相鉄線・平沼橋駅周辺からは、一面が湿地帯だったという昔を偲ぶのは難しい。



わずか8年の命だった二代目横浜駅




初代横浜駅のスイッチバックの不便さ、平沼駅の立地条件の悪さ――双方の問題が解消され、首都東京と横浜中心部間の行き来が改善されたのは、旅客線の新起点である東京駅が開業された翌年、1915(大正4)年のことだった。

同年8月15日、横浜駅は桜木町から高島町に移転し、二代目横浜駅が開業する。同駅の誕生は、横浜の鉄道地図を大きく塗り替えることになった。


二代目横浜駅開業時の路線図


東海道本線は横浜中心部寄りをやや迂回する形に変わり、スイッチバックの必要なく二代目横浜駅を経て程ケ谷方面へ向かうことが可能になった。そのため平沼駅を通過する短絡線は不要となり、駅も路線も廃止される。同時に初代横浜駅は桜木町駅と改称された。


1922(大正11)年測量の地図(『今昔マップon the web』より)


新たに登場した二代目横浜駅は、建築的にも初代に劣らぬ魅力と個性を持っていた。


『横浜駅 Yokohama Station.』(横浜市中央図書館所蔵)


上は当時の絵葉書だが、この姿から何かを連想しないだろうか。そう、二代目横浜駅は前年に完成した東京駅とよく似たデザインだったのだ。

鉄骨2階建てレンガ造り、ルネサンス様式の風格ある外観だ。
いっぽう内部に目をやると、2階に改札所、待合室、食堂、売店などがあり、なんと日本で最初の橋上駅舎でもあった。

ところがこの駅には、一つだけ残念なことがある。同駅ができた同じ年に、高島~程ケ谷間に貨物線が開通し、その高架線路が二代目横浜駅の駅前を横切る形で敷設されたのだ。上の絵葉書をよく見ると、わざわざ高架線の上を貨物列車が通るその瞬間をとらえているが、この奇妙な設計は二代目横浜駅の景観を大きく損ない、評判を悪くした。

また、同駅は東海道線ホームと京浜線ホームが駅舎を挟むような形で敷かれ、これに上記の貨物線を加えた3路線によって囲まれた本屋の敷地は、今日から見ても珍しい三角を形づくっている。


二代目横浜駅の線路敷設概略図


とにもかくにも、横浜駅はめでたく東海道本線上に復帰し、表舞台によみがえった。ところがその輝きは1923(大正12)年9月1日、突然の天災によって一瞬にして失われる。

この日首都圏を襲った関東大震災は、横浜市全域に大きな被害をおよぼしたが、二代目横浜駅も例外ではなかった。


『大正12.9.1横浜大震災実況 惨膽タル横浜駅』(横浜市中央図書館所蔵)


どうにか倒壊はまぬがれたものの、周辺に発生した火災によって外壁だけを残して焼失した二代目横浜駅。その残骸のような構内に震災罹災者が殺到した。

下の写真は、持てるだけの私財を抱えた避難民で埋め尽くされ、混乱の極みに達した震災直後の横浜駅の様子をリアルに伝えている。


『横浜駅避難者』(横浜市中央図書館所蔵)


こうして、開業からわずか8年にして、二代目横浜駅の偉容は失われてしまった。同時に日本最古の駅舎・桜木町駅(初代横浜駅)も、惜しくもこの震災で焼失する。



震災復興で誕生した三代目横浜駅




震災後、二代目横浜駅は焼け残った外壁を生かしトタン屋根をかけて、仮駅舎としてしばらく営業を続ける。その間に政府は、震災復興計画の一環として横浜駅の再建を図る。計画の中には横浜~桜木町間の支線廃止案などもあったが、これは横浜市の激しい抵抗を受け廃案となる。

だが、東海道本線をさらに直線化するために横浜駅を移転させるという骨子は揺るがず、1928(昭和3)年10月15日、三代目横浜駅が誕生する。


三代目横浜駅開業時の路線図


上の概略図に示す通り、かつて平沼駅があった短絡線が再び東海道本線として復活し、三代目横浜駅はその東海道線と桜木町へ向かう支線との分岐点上に建てられた。

敷地は、震災で大打撃を受けたライジングサン石油会社の油槽所跡地が利用された。


1931(昭和6)年測量の地図(『今昔マップon the web』より)


このとき、東海道・神奈川宿のゆかりを持ち、鉄道開通当初から存在し、一時は利便性の悪い平沼駅に代わって横浜の実質的な玄関口ともなった神奈川駅は、三代目横浜駅とあまりにも近いことから廃駅となってしまった。

旧・神奈川駅の跡地は、横浜駅と青木橋の中間で、京急線の線路沿いの敷地が少し膨らんだところだという。おそらく下の写真の赤枠で囲った辺りでないだろうか。


青木橋橋上から横浜駅方面を望む


見方を変えれば、三代目横浜駅は神奈川駅に取って代わって誕生したともいえる。下の写真はその完成間もない頃、出来立てホヤホヤの駅舎だ。


『大横浜名所 横浜駅の美観』(横浜市中央図書館所蔵)


当時の三代目横浜駅の表玄関は東口だった。まだ駅前広場は未整備で地面に砂利が敷かれているが、建物は鉄筋コンクリート2階(一部3階)建て、正面に高い吹き抜けと広いコンコースを持つ典型的な昭和初期のモダニズム建築だ。

やがて太平洋戦争が勃発し横浜大空襲で市内は再び壊滅するが、三代目横浜駅は幸いにも保土ケ谷駅寄りのホーム上屋(うわや)などに被害を受けた程度で済んだ。

下は戦後の1968(昭和43)年に撮られた横浜駅東口の姿。建築当初とそれほど大きく外観は変わらない。


『横浜駅東口』(横浜市中央図書館所蔵)


三代目横浜駅の初期の駅舎は、1978(昭和53)年に改築されるまで、50年間使用されることになる。


そしてこれが現在の横浜駅東口


さすがに建物は大きく変化しているが、なんとなく佇まいには通底するものを感じる。もちろん背後には、かつてはなかった高速道路や立体歩道が縦横に走り、高層ビルが林立しているのだが・・・。



二代目横浜駅の遺構を訪ねる




初代から三代目までの横浜駅の変遷を辿ることで、二代目横浜駅の歴史的立ち位置を浮き彫りにしてみた。

もしかしたら関東大震災がなければ、今でも横浜駅は高島町にあったかもしれない。だとしたら、JRと旧東横線、そして首都高横羽(よこはね)線の高架下を国道1号線、16号線、新横浜通りが複雑に入り組む現在の高島町交差点付近は、まったく異なる様相を呈していたにちがいない。

高島町交差点は地下鉄高島町駅のすぐそば



高架線路、高速道、国道が錯綜する高島町交差点の東側周辺


キニナル投稿によると、この付近に二代目横浜駅の赤レンガが出たという。さっそく調べてみると、その場所はすぐにわかった。なぜならそこは、市の歴史的建造物としても指定されているからだ。

旧東横線高架橋沿いの国道16号線側から高島町交差点を望むと、交差点の目の前に大きなマンションがそびえている。そのマンションの敷地内に二代目横浜駅の遺構はあった。


正面の茶色いマンションが目当ての「ロワール横濱レムナンツ」



近くで見るとなかなか高級そうなマンションだ



だが、マンション前の敷地に公衆トイレがあり



そこに丁寧に案内板が掲げられていた



矢印にしたがって右側に回り込むと奥に解説板らしきものが・・・



近づいてみると解説板の背後にレンガの遺構が



説明文のプレートには在りし日の駅舎が刻されている



歴史的建造物認定プレートの右に、駅舎全体と遺構の位置関係を示す図もある


それらを参考に思いを馳せながら、しばし実物をいろいろな角度から激写してみる。


遺構全景



低い角度からぐっと寄ってみる



別の向きから寄ってみる



上から見ると建物の基礎部分であることがよくわかる



同じ敷地の隅にガラスで仕切られた場所もあった


おそらくこれが説明文にも記載された「横浜協働電燈会社裏高島発電所の第二海水引入口」なのだろう。二代目横浜駅と同時に発見されたこの遺構は、さらに古い明治期のものだが、残念ながらガラスが曇っていて中がよく見えない。

遺構はキニナル投稿にある通り、マンションの建設中に発見されたという。マンション竣工が2007(平成19)年3月で、解説板の銘板にも「2006」と表記されていることから、発見されたのは2006年頃か。震災と廃駅を前後した時代からおよそ80年後に、二代目横浜駅が地上によみがえったことになる。

なお、この場所は横浜市市街地環境設計制度に基づく公開空地で、誰でも自由に出入りすることができる。



二代目時代の横浜~程ケ谷駅間の痕跡を求めて




二代目横浜駅の遺構は確認できた。では「よこはまうまれ」さんがキニナル「当時の東海道本線の痕跡」は残っているのだろうか。
具体的には、三代目横浜駅の開業と同時に廃線となった、二代目横浜駅と程ケ谷駅間の東海道本線のことだ。

鉄道院総裁官房研究所の『業務研究資料』という古い資料に「横浜停車場附近線路平面図」が掲載されている。二代目横浜駅が開業した1915(大正4)年のものだ。

それによると、横浜駅から程ケ谷駅へ向かう線路は、石崎(いしざき)川の南岸に沿って、川と東海道(国道1号線)にはさまれる格好で敷かれていたことがわかる。

二代目時代(1922年)と現在の時系列対照地図で位置を突き合わせると、次のようになる。


おおむね赤枠箇所が三代目以降の廃線エリア(『今昔マップon the web』より)


これを参考に、石崎川沿いの道に何か少しでも鉄路の痕跡がないか、高島町から保土ケ谷方面に向かって歩いてみた。


高島町交差点から国道1号線の保土ケ谷方向を望む



そのわずか100メートル弱右側に高島橋がある


高島橋は石崎川の下流の終わり近くに架かる橋だ。


同橋から石崎川の上流、保土ケ谷方向を望む


石崎川は、江戸時代の新田開発で生まれた用水路。下流は帷子(かたびら)川に合流する全長1.6キロほどの二級河川だ。
川沿いの左側、つまり旧東海道線がかつて通っていたと思しき側の道を進んでいく。


だが川沿いの道はすぐ行き止まりに


この先、石崎川と国道1号線にはさまれた一帯には、水道局桜木ポンプ場、戸部警察署、西消防署などの大きな建物を擁する敷地が、かつての鉄路を覆うような格好で並んでいた。


高島橋から5つ目の平戸橋の左側に建つのは特養施設「ハマノ愛生園」



その次に架かる西平沼橋の先に・・・



ようやく川沿いの道が現れた



しかも川沿いの道と国道との間に細い路地も発見


試みにその道を進んでみた。だが、その狭い道路はどこまでも左右に大きなマンションがあるばかりで、路傍に鉄路の痕跡らしきものも見当たらない。


それにしてもひたすらまっすぐだ



そして突如目の前がひらける


突き当たった場所は、JRと相鉄線の上を洪福(こうふく)寺に向かって蛇のようにうねりながらまたがる陸橋のたもと、浜松町交差点だ。


路地の終着点の道端に、ふと赤い柱を発見



旧平沼駅近くにも建っていた名所案内標識「温故知新のみち」だ



標識には、はっきりと「東海道線旧鉄道敷」と書かれていた



ということは、今通ってきたこの道こそ鉄路の軌道なのか



解説プレートも「そうです」と言っている



中央の二つのビルの谷間に「温故知新のみち」がある


上の写真は大通りの反対側から眺めたものだ。行き交う車の喧騒や頭上を覆うビル――いまや都会の渦の中にかき消されそうな存在だが、かつてこの谷間の道を、蒸気煙る列車がまっすぐに走っていたことを想像するとどうだろう。

地図で見るとわずか600メートル足らずの距離とはいえ、「当時の東海道本線の痕跡」は確かに残されていた。


赤い直線箇所が旧東海道線の軌道(© OpenStreetMap contributors)




取材を終えて




二代目横浜駅の遺構、そして旧東海道線の軌道、いずれものちの都市開発の中にあって、わざわざその場所を残すような形でマンションが建てられていた。この、歴史を大切にする横浜というまちの意識の高さは誇らしい。

それにひきかえ・・・と、つい思ってしまう光景が、二代目横浜駅遺構のすぐそばに存在している。

じつは、「ロワール横濱レムナンツ」のすぐ横は、旧東横線の高島町駅跡なのだ。


路地を隔てた右側に高島町駅跡がある



高架橋の支柱は朽ちかけ落書きもチラホラ



パーテーションの隙間からちょっと中を覗くとこんな様子


まあ、この荒んだ感じも遺構っぽいと言えなくもないが、確か以前取材した一部供用を開始した旧東横線高架橋遊歩道は、いずれ横浜駅まで延び、途中にある旧高島町駅も再利用の検討対象の一つだと聞いている。が、この放置状態が解かれるのは一体いつのことやら?

ここもまた横浜の鉄道史を語るうえで欠かせない場所の一つ。ぜひ早く、隣りの「二代目横浜駅遺構」と仲良く並んで、歴史の語り部スポットになってくれることを期待したい。



―終わり―


編集協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/


参考資料

『かながわの鉄道』長谷川弘和・吉川文夫著、神奈川県県民部文化室企画、神奈川合同出版発行(1978年9月刊)
『横浜駅物語』神奈川新聞社編・発行(1982年3月刊)
『鉄道と街・横浜駅』三島富士夫・宮田道一著、大正出版発行(1985年11月刊)
『神奈川鉄道写真集』原田勝正監修、岩田武編著、郷土出版社発行(1993年3月刊)
『横浜の鉄道物語』長谷川弘和著、JTBパブリッシング発行(2004年11月刊)
『写真集 関東大震災』北原糸子編、吉川弘文館発行(2010年4月刊)
『「地図」で探る横浜の鉄道』横浜都市発展記念館編・発行(2011年3月刊)
『鉄道ピクトリアル №875』「横浜・川崎の鉄道」山田亮執筆、鉄道図書刊行会発行(2013年5月号)
『伸びる鉄道、広がる道路』横浜都市発展記念館編、横浜市ふるさと歴史財団発行(2018年4月刊)

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  • 「ということは、今通ってきたこの道こそ鉄路の軌道なのか」そんな細い所、軽便鉄道のトロッコ軌道じゃありません(笑)「わざわざその場所を残すような形でマンションが建てられていた」線路敷もまさにその細い2本の道に挟まれて延々と続く、マンションそのものがそれ。マンションに再開発される前には、JR社宅(その前は国鉄官舎)が線路敷跡に細長く建っていたので、地図を見てもひと目でわかった。

  • 二代目横浜駅の手書きの略図。スイッチバックが必要なように見えてしまうのですが。老眼のせいでしょうか。スイッチバックが不要になったという本文の記事と符合しないような気がするのですが。

  • 横浜駅東口(当時は正面、駅前に市電も走っていました)の駅舎、懐かしいです。高校生の頃、駅舎の中にあった横濱鐡道公安室(確か、看板にこう書いてありました)にキセルで捕まったこともあります。広々したコンコースでした、

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